山中林思

(文:東前 寛治)

8 地租改正と入会権の変容

〜小繋事件を通して〜 (その二)

 前回は、地租改正の様子とそれに伴う入会権の変化を小繋事件の概要を通して述べたが、今回はその中に含まれている問題点について触れていこう。「明治と年号が変わり、地租改正により各自で山林を保有することとなって税の負担もあったが、山林の利用は江戸時代のそれと原則的には戦後の昭和30年代後半あたりまで変わることはなかった。」 しかしこれは、山林の所有者と利用者が同一の場合であり、事実、 小繋の集落でも地租改正による変化は、当初極めて些細なものだった。旧時代は無税だったが、年20円前後の地租は村民が各自50銭足らずを地頭である立花喜藤太方に持参して、喜藤太から受領証をもらう。それだけのことで、小繋山の利用状況は全く以前と同じだった。もともと小繋山は南部藩の「御山」とされ、制札、ナタ札、鎌札の必要がなく、地元村民が自由に立ち入って草木を採取していた山であった。従って旧庄屋の立花喜藤太が村民を代表して小繋山の地券を受けたのは、あくまでも名義上に過ぎず、一人一人の地券交付となっては各自が家の相続に当たって証紙代がもったいない…とかいう事情もあったようだが、代表者の交付にしたのは岩手県の方針も絡んでいる。

 新生岩手県は、山林原野官民所有区別処分を、努めて民有にする方針を打ち出した。一方、山梨県は、官有化強制の方向で臨んでいる。それは民有申請を行わず「官有地」として無税のまま従来通り収益する方が、出費が少なくて済むからであった。では、岩手県の民有化促進の理由は何か? 明治8年2月の「各戸長・副・組総代宛」の県の通達には「売買商人ナキモノハ保証人ヲ立テテ出願セシメ、依ッテコレヲ民有トナシ」とある。 本来なら村というより村民総体の名を一枚の地券に記載し、数十名もしくは数百名共有の名義で発行すべき所を、村方有力者もしくは数人として実は村持山山林原野の大部分を個人所有形式に導いた…と言えるのではないか。当座の手続き上その方が速くて楽、それに保証人さえいれば個人所有にできる、ただ名義上だけ…。もし県の役人が村の上層部にのみ意図的に達しを伝え、個人所有化を促進したとすればその責任は重い。所有権の保持がどんな利益を生むかは、後日明らかになることだとは言え…。

 また国税を増やすか、民の財力の温存を図るかという視点でも考えられるが、戦後入会権の問題は富士山麓や内灘の基地闘争で再燃し、入会権より国家の行政権が優位に働く方向で収束が図られていく。小繋事件の原告敗訴もその延長線上で処理されたと言えるだろう。  ちなみに明治5年、北海道開拓史は「北海道地所規則」を公布、「深山幽 谷人跡隔絶の地」以外は、山林、川沢、従来アイヌ民族が狩猟、漁労、伐木に利用してきた土地であっても国家が取り上げて和人に払い下げ、地券を与えて開拓を進めた。昨日まで利用できた山野が、ある日突然出入り禁止となりそこへ開拓者がやってくる…という場面を数多くの文学作品から知ることができる。北米でも満州でも、また朝鮮でも見られた光景が、かつて北海道各地の山林原野で行われたことを忘れてはいけない。

 

 参考文献
  戒能通孝「小繋事件」(岩波新書)
 「新版北海道の歴史 下」(北海道新聞社)

 

 

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