山中林思

(文:東前 寛治)

7 地租改正と入会権の変容

〜小繋事件を通して〜 (その一)

 前回は、封建社会の完成に伴い山林の所有と利用を巡って各地に入会地が形成されたことについて述べた。今回は明治近代国家の成立による山林の変化について触れる。

 明治6年(1873年)明治新政府は、幕藩的領有権を否定し私的土地所有権を法認した土地改革を進め、財源基盤を確立する租税改革を断行した。これを地租改正と言い、そのねらいは「旧来ノ歳入ヲ減ゼルヲ目的ト」することにあり、近代常備軍の創設、近代工業及び運輸・通信施設の移植・育成、はては秩禄公債の財源まで、明治10年代政府租税収入の約60〜80%が地租でまかなわれた。納税者は土地を所有する農民が殆どで、地価の3%が地租とされたが、その高負担に各地で一揆が発生して自由民権運動の温床となる。

 明治9年以降、山林原野に対してもその所有者を判定し、所有の確かなものには地券を交付して所有の確証となす反面、所有の証拠を出し得ない山林原野はすべて「官有地」に編入することとした。この「山林原野官民所有区別処分」により、従来の入会地・秣(まぐさ)場等に関する所有関係は大きな変動を余儀なくされた。まず、(1) 多くの山林原野は官有地に編入され、その後従来の共用権利者はその地の使用を拒否された。一部の山林原野は、(2) 共用権利者の構成する村名義で地券を交付された(その後の村落統合により、混乱が生じた)。(3) 山林・秣場の所有権を証明するため、村民の代表者を定め代表者名義で地券を受けた。(4) 共用権利者全員が地券面上の所有者として、その名を列記した。

 入会権を巡る訴訟で著名な「小繋(こつなぎ)事件」は、上記(3)に該当する。岩手県一戸町小繋集落では、実測2,000町歩の入会地が地租改正によって「民有地」と認められたが、地券が部落の代表者・立花喜藤太名義で発行された。その後、小繋集落の地頭であった立花喜藤太は、明治30年に小繋山の所有名義を柵山梅八・村山権十郎・山口清吉の三名共有に譲る。更に翌年一戸町金子太右衛門が小繋山を買い取り、明治40年には、茨城県那珂湊の鹿志村亀吉が金子より譲り受けている。そして大正4年6月に小繋集落が大火にあい、旧記録・証書類が消失してしまう。集落再建のため小繋山の伐採を試みたところ「俺が買った山だ。これは部落の山ではない。一木一草といえども山の木を勝手に伐ってはならない」という鹿志村との間に紛争を生じ、入会の慣習と所有権の間で訴訟となった。裁判は三度、足かけ50年をかけて争われたが、その概略を述べる。

 大正6年に提起された「入会権確認訴訟」は、盛岡地裁、宮城控訴院、大審院を経て原告村人側が敗訴。次いで昭和26年、再度の盛岡地裁判決で入会権を認めたものの、所有権の時効取得を確認して原告敗訴。この際の調停の可否を巡って昭和30年森林法違反の刑事事件が発生し、昭和41年村人側の有罪が確定した。(以下次号)

 

【参考文献】
・戒能通孝「小繋事件」(岩波新書)
・篠崎五六「小繋事件の農民たち」(勁草書房)
・国史大辞典(吉川弘文館)
・岩波日本史辞典(岩波書店)

 

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