山中林思

(文:東前 寛治)

4 三輪山と春日山

 前回は三内丸山遺跡を例に、縄文時代の人間と森との関わりを述べたが、今回は奈良県にある三輪山と春日山を比較しながら、縄文時代との違いを考えてみよう。
 奈良時代には律令制度によって、天皇を中心とする中央集権国家が確立された。その重要な施策として、「公地公民」の理念がある。即ち、土地と人民はすべて国家のものであるという前提の下、従来豪族の支配下にあった土地と人民を国家の直属にした。豪族には、国家から改めて「位田」「職田」「功田」として田を与えて経済的特権を保障し、朝廷の役人としてその社会的・政治的地位を認めるなど、国家機構への取り込みを図った。簡単に言うと天皇(国家)と豪族による土地と人民の分割供与、国家主導の妥協策と言える。

 ところでここで言う「公地」とは、お米のとれる田を指している。では、畑や我等が最も関心を寄せる森林はどうだったのか? それについては「律令制では、労働力の投入によって耕地化されていない未墾地・原野=山川藪沢は、公私利を共にすべしとされ、公・私いずれとも確定されない無主地であった。」といわれる。このことから、律令制度確立以前の所有関係がそのまま持続していた…と推論する。つまり、大小豪族の森林、村のような集団の森林あるいは寺社の抱える森林がモザイク状に入り乱れている…というのが実際だったのではないだろうか。

 さて、かつて奈良の都が栄えた奈良盆地には、南東部に三輪山、北東部に春日山がある。春日山は現在「原始林」と評価され、「特別天然記念物指定地」になっている。代々豪族藤原氏の氏社、春日神社の山として栄え、江戸時代には7908石の朱印地が幕府から与えられた。シダ植物・種子植物合わせて187科、1272種の分布が確認されている。一方の三輪山は、大和朝廷の奈良盆地進出以前からこの辺りで勢力を誇っていた、三輪氏の神南備山として有名。しかし三輪山をご神体とする大神神社の社禄はわずかに60石、植物も709種にすぎない。それどころか、三輪山の記録や植生から、この山はかつて頭頂部まで伐採され、地面が露出していたことも明らかになっている。なぜこうした違いが生じてきたのだろうか? それについて「一、三輪山林並びに木の葉盗み捕る者…手前うち捨てたるべき事」という資料から、三輪山は信仰の対象であっただけではなく、近くの里人から大いに利用された里山であったことがわかる。三輪氏が藤原氏に比べ早くに勢力をなくし、歴史の表舞台から消えていったことも要因になろう。縄文時代以来の山林利用の伝統を受け継いできたのは、はたしてどちらの山であるのか言うまでもないと思う。

 

参考図書 永原慶二「日本経済史」岩波全書 
有岡利幸『ものと人間の文化史 里山1』(法政大学出版会)「新日本史」(三省堂)

 

 

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