北極圏への旅

(あらまきよしお  作家・荒巻山林山主)

第2回 長さ200キロのベストフィヨルド

 ナルビクは急斜面に張り付いていた。小樽よりもずっと勾配がきつく、鉄道駅も高台にある。港に向かいながら振り返ると、威圧的な岩山が見上げる近さで壁となり、そのせいで、半年間は太陽を見ることができない。9月がはじまったばかりなのに、昼の光が弱々しく、どこか白けているのだ。急坂の街角に、ふーと妖精が現れそうな感覚さえある。

 船着き場に着くと、すぐ出港。北大西洋海流のおかげで、真冬でも凍らない峡湾上で、フェリーは速度を上げる。デッキに出ると風が冷たいが、広い船室は温室のようである。峡湾の幅が急に広がる。長さが200キロもあるベストフィヨルドを、南西方向へ疾駆する右手の船窓は、あたかも巨大岩石彫刻のようなロフォーテン諸島だ。左窓側は輪郭がごつごつしたノルウェー西海岸。稜線が金色の帯で縁取られ、断崖は真っ黒な影。私には既視感があった。どこかでみた景色だ。少年時代、理髪店の壁にあったフィヨルドの着色写真かもしれない。

 私は、夜行列車の寝不足もあり、浅い睡魔に誘われながら、ユング的な大いなる過去に遡っていた……約1万年前に終わったヴェルム氷期は、約7万年前からはじまっていた。北半球を覆った大陸氷の一つがこのスカンジナビアにもあり、中心はバルト海の最奥だった。中心部の3000メートルの厚さは、現在の南極と同じであった。そのものすごい重量で、スカンジナビア全体が押し潰されたが、現在は、毎年1センチずつ復元しているそうだ。北極から南ドイツまで達していたこの氷の時代にも、人類はしぶとくマンモスを狩って命をつないでいた。こうして、長い長い氷期が終わるまで2千数百世代を連綿と生きのびた子孫が見た地表は、表土が根こそぎ剥ぎ取られた沃野の残骸。岩だけの陸地だった。

 フェリーの機関音が一定のリズムを奏で、私は、もはや、夢界の住人である。そこは、われわれ人類に遍く共通する集合的無意識に支配されている世界だ。言で概念化する以前に、意識が見ていたかもしれない景色や出来事。それらが様々な象徴を紡ぎ出す。おそらく氷と岩、吹きすさぶ強風が起こす黄塵万丈の世界。人々は、鬱蒼とした緑の森林に憧れたことであろう。我々の樹々に包まれる安らぎと信仰は、こうした太古の不安に根ざす願望であるにちがいない。(つづく)

 

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